米子簡易裁判所 昭和37年(ろ)40号 判決 1963年9月02日
被告人 田中強
昭八・六・一八生 自動車運転者
主文
被告人は無罪。
理由
本件公訴事実は
被告人は自動車運転者であるが昭和三十七年二月二十三日午後零時十五分頃、鳥二あ〇三九一号大型乗合自動車を米子市に向け運転、西伯郡日吉津村大字日吉津七一五番地先巾四、一〇米の狭い道路の海川停留所に停車して発車するに際し川原智恵美(当時五年)が進路上を横切つたのに注意を奪われ中塚保志(当時三年)が進路上に出て来たのに気付かず発車した業務上の過失によりこれを轢き倒し因つて同人を脳底背椎骨折により即死するに至らしめたものであるというのであるが
証人高西史郎、同三島京、同藤岡幸子らの検証現場における尋問調書、検証調書、医師米本哲人作成の死体検案書、山根勇作成実況見分調書、被告人の司法警察員に対する供述調書
被告人の検察官に対する供述調書、証人川原智恵美の供述調書、同三島竹松、同川原幸一の当公廷における各供述等を綜合すれば、被告人は前摘示の公訴事実記載の日時場所において右公訴事実記載の自動車を運転し海川停留所に停車して子供を背負い子供一名を連れた婦人一名を乗車させ、他に乗降客がなかつたので車掌の発車合図を待つた。乗降口附近には前記子供連れの婦人を見送つていた父親三島竹松が居た。発車直前、被告人がバツクミラーで後方を注視していたとき道路の前方右側から車の前を横切つて左側に進行する女児(川原智恵美当時五年)を発見したので女児が乗降口附近に停立し乗車しないことを確認し、運転者席から前方に人や車のないことを確め、車掌の合図によつて発車した。
これがため同車前方左側寄り附近の運転席から視界困難な地点で車に接着していたと認められる被害者中塚保志(当時三年)に気付かず発進したため、同人を車の前部で押し倒し脳底背椎骨折により即死させたもので発車後約一、〇〇〇米の地点に至つたとき被告人は車の左側後輪附近に異様な物音を聞いたので停車して下車し、調べたところ車の後部より約三、〇〇米の地点に、被害者が足首を車の左側タイヤの跡に載せ頭を道路の内側に向けて倒れていたもので本件車が停車してから発車まで約二十秒の時間であつた。
事実を認めることができる。
よつて右結果の発生が被告人の業務上の過失によつて生じたものかどうかにつき検討するに、
一、現場は幅員四、一〇米の歩車道の区別のない道路で、道路の両側に幅二五糎の測溝があつて両側に一般民家が建ち並んでいる。路面は土砂道で自動車のくぼみがあり中央は稍々高くなつている。事故当日は天候も晴天で路面は半乾、見通しのよい道路で農村であるから人や車の往来も閑散であつたことが認められる。(被告人の警察における供述調書、実況見分調書参照)
二、本件車の運転者席(車の右側)における視界について、肉眼、左バツクミラー、アンダーミラーを通じて認めることのできる車の前部、前下部、車の左側部の状況は、検証調書によれば身長九五糎の人影が(証人中塚英雄の供述調書によれば被害者は身長九五糎位)車の前方を右側から横切つて車の左側へ進行した場合を仮想して検するのに、車の左前角より車の前面稍々右寄りに〇、四米の地点ではアンダーミラーから姿を消し視界に入らない。(検証図面参照)この地点から車の左側後方に一、三〇米車の左側車体から〇、三〇米の地点では左バツクミラーで頭姿を認めることができる。この地点から更に同方向に車の左側後方一、八〇米の地点では左バツクミラーで上半身を、更にこの地点から同方向に一、七〇米の地点では左バツクミラーで人影全体を夫々認めることができる。以上の実験の結果からみると車の左前角部に当る間は運転者席からの注視は不能又は著しく困難であるが右以外のところでは肉眼、アンダーミラー、バツクミラーを綜合すれば視界は困難でない。
三、本件被害者がいづれの方面より車に接近して車のいづれの部分に触れて押倒されたものであるかは、本件車の発車した当時被害者を目撃したものがなく被告人自身も目撃していないのでこれを証明することはできないが前記川原智恵美、三島京の各証言を比較検討すれば被害者は当日本件自動車が海川停留所に停車前自宅前(中塚英雄宅)で川原智恵美外二名の子供とままごと遊びをしていたが本件車が海川停留所に停車する間際に隣家の川原智恵美方に友達同志連れ立つて水を呑みに行き水を呑んでまつ先に同家を飛出し一度附近の家蔭に姿を隠したが停車中の本件車を見ていづこからか車体に近づいて、車の左前角部の運転者席からの視界不能又は困難な地点又はその附近に車に接着していたものと推認する。(被害者の居た位置が以上のような視界困難な地点であつたであろうことは、被害者が左側車輪タイヤの跡上に倒れていたことや、被告人が左側後輪近くで異様な物音を聞いたことなどから考えて推認できる)
しかして本件事故現場が交通閑散な農村部落で見通しの良い道路であること、事故当時人の通行が全くなく車が停車して発車するまでの時間が僅かに二十秒余の短時間でその間に状況の変化が認められなかつたこと、等の事情を考えると被害者が川原智恵美のあとを追つて自動車の前部直下を車にすれすれに進行しているというようなことを被告人が予想できたと思えるような状況は何ら認められない。
弁護人は、被害者は車の後部横の辺りで発車直前に車にぶつかつたものと思われるというが、被害者が顔面及び両大腿部に擦過傷及び挫傷を負つたが車輪に轢かれたような外傷がないことや、車体中央部の乗降口の近くにいた三島竹松、川原智恵美が被害者を目撃していないこと(証人三島竹松、同川原智恵美の各証言参照)等と考えると、被害者が車の左側後部横の辺りに停立していた為に事故に会つたものとは認められない。
四、被告人は本件事故日の前夜は十分な休養をとつていたので体調も良好であつたし、事故当時にも何ら運転の障害となるような体調にあつたとは認められず自動車の調子も良く現場は被告人が毎日定期バスを運転して慣れた通路であるので附近の地理にも明るかつたことを認められる。
以上の認定事実により、本件事故が被告人の業務上の過失に基いて発生したかどうかを考えるに、凡そ自動車運転者たるものは、発車に際しては車の周囲の安全を確認して車の周囲にある人や物に触れないよう相当の注意をなし事故の発生を未然に防止すべき義務があると解するところ、本件の場合、被告人は発車前車の左右、又は前方を注視して事掌の合図によつて発車したもので十分なる注意を払つていたものであることが認められるのであるが運転者席からの死角圏内に当る自動車の前左側角部又はその附近の視界困難なる地点で車に接着していたと認められる被害者を見極めなかつた為に本件事故を惹起したものである。
しかしながら本件の具体的場合において僅か二十秒という短い停車時間内に運転者席からの視界を超えて三才の幼児が自動車の車体に接着して進行し又は停立しているような異状な状況を予想し得たような状況は客観的にも認められないし被告人自身も予想していない。このような場合被告人が自ら下車して車体の死角圏内を確認するか又は窓より頭部又は身体を乗り出してその安全を確認して発車すれば、或はその事故の発生を未然に防止し得たかも知れないし、現場の状況によつては又このような方法をとることは望ましいことであるが、常にかような異状な事態が起こることを予想してこのような義務を運転者に望むことは余りに酷であると解する。
被告人は前記事実認定の通り運転者席から相当の注意を払つていたと認められるから車の前方死角圏内の安全確認義務を怠つたものとして過失を認める証拠がない。
よつて本件事故は不可抗力による事故であると解し、被告人に注意義務違反はないものと認定し本件公訴事実は被告人の業務上過失を認める証明がないから刑事訴訟法第三三六条により無罪の言渡をすることとし主文の通り判決する。
(裁判官 山田憲太郎)